2012年03月22日

予十 法の値段-1

(2012/03/17)
予十 法の値段-1

 今日は、我輩の栄を取る話をする。
我が黒夏という、この黒うという。
黒を愛でる名の津という。

津に得た揺りの名の波の出来という。
これを、賜う田という。我輩という。
寵田(ちょうでん)という。我がの家を
寵という。我が世という。わたの絵をいう。

わた山という。わがの宴(えん)をいう。
この墓という。宴墓という。この肩の田の
絵という。わがの山の絵という。

 ふた山にこたという。絵田を取るをめ、
という。うわたや、という。うわら山の絵
という。絵を取るうわ、という。

 やらやらうた、という。うわら山という。
引いた絵の世という。山を引く絵という。
山引きの絵という。

 うたを取るややという。ややよ、という。
我輩という。我が世を愛でる歌という。

 山の歌という。わたる山という。
うたる山という。よこを見る絵という。
絵の絵という。江の絵という。
絵の江もある。

ややよよ、という、あた山という。
ややを見るうわ、という。
やたという。やわらふ、という。
ふわらやや、という。

ちちという。ははという。
ちちははという。
山々という、あか山という。
歌の山という。うたわ山という。

筝を弾く手という。筝引き手という。
山々という。やおという。えを取るえた
という。えみという。えみの世という。
えわらおという。えさるやという。

我輩のほうの山という。法を、水去るという。
この水という。この水を去るという。
水が去る日の、去りをいう。
去りの話しという。

これを五法、という。この法という。
これを去る水という。
五法の水である。

灯台から、水が去るという。
灯台という。花を取る、水辺という。
灯台を見て、花を添えるという。

これが五の山という。五の山の江という。
花山という。山の話という。
五つ山があったという。我が山という。

我輩が駆けた山である。
我輩の駆け方が御法でもある。
自らを律することが書かれている。
一に良し、二に富む、三に得る、
四に取る、五になむ。
これを、五法という。

我輩は、年を取る人という。この年という。
五円の話しという。年を取る宴が丸いことで、
五円となる話で自分を律する、五法は一条
という。一条は一円となる。

この円を黒夏の貨という。蚊貨である。
一円と一条を愛でる我が蚊という。
この蚊が、貨と書く蚊、である。
これで、わかりやすく、蚊貨、貨蚊と書く
我輩である。

これで、法は、一条で一円である。
五条で五円である。我輩という。

山を駆ける我が勇姿という。
一条の勇姿は良し、である。
二条の勇姿は富んでいる。
三条の勇姿は得る姿である。
四条の勇姿は取る姿である。
五条のなむ、である。

この勇姿が、我輩を取る見方という。
我輩を得る見、という。
勇者の我輩を、自分に来る人という。
我輩が行くのである。

我輩が得るが、我輩を得るとなる。
我輩の話である。

この五条を、蚊という、虫を愛でる我輩という。
蚊が黒夏となる。蚊の国でもある。
貨とも書く。これを蚊の貨という。
かのか、と書く。かのか、の君という。
これが、我輩という蚊の君でもある。

融資とまちがうように聞こえれば、
蚊の君の勇姿である。我が勇姿ともいう。
とんだ話である、身の話という。

これをはっきりという。実生活という。
これを実生活という。実上の生活という。
実の上の生活である。

蚊の君を見れば、そうなる話である。

ここで、融資と出てくる、これが蚊の勇姿である。
銭は融資ということを、課という。
融資課という、あれという。

金貨という話しである。金貨の一円という、
金科玉条である。法は、金科である話という。

我輩は筝を爪弾くという。我が琴を慈しむ輩である。
我輩のことである。

posted by 若軍 at 20:27| Comment(2) | TrackBack(0) | 小説
この記事へのコメント
小林さんの文章から 江の絵 絵の江 とか 単語の意味論をいつも考えさせられます。
Posted by at 2012年03月24日 03:19
どちらに書いても、意味が同じになるように
書きました。
Posted by 若軍 at 2012年03月24日 18:15
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