2012年02月21日

国家の切り出し

黒夏

その人の夏は来た。その人は、夏を、涼む詩、
という。鈴虫の待つ、秋来ぬ、涼む時を、詩、
という。黒夏の枢要を論ずる、その人の項である。
これを、紅葉という、効用の論ずる、夏の黒きよき、
という。黒い夏の口論という。こうくうの山をいう。
その人の愛での章である。その人を愛でる国という。
その人という。その人が愛でた人である。
黒い犬という。黒い犬の夏を黒夏という。
国家論を転用する論という。その人は、夏日和の日という。
夏をともにする、夏子論という。夏子の富有書きである。
かっし論ともいう。かっしやわ、ともいう。その人の、
こっけん、である。夏にいた黒い犬を今も呼ぶ、
その人である。その人の国憲論である。

その人、夏を「潔し」という。
夏潔の黒夏という。
これを盛夏という。
聖火であるという。

国家は、国を挙げて、応援するという。
聖火の盛りと言う。古くは、かの聖人という、
「済家、平天下」という、あの聖人という。

我輩の部下である。我輩は、新しくある、平天下は
乱天の未来である。乱れているのは、天である。
かように、我輩は思うのである。天が平らになったという、
聖人の言葉という。地が真っ直ぐな台地であり、
これと平行するのが、天である。どこまでいっても、地は
真っ直ぐである。地が真っ直ぐであり、天が曲がっている。
これを見ることを、平天下という。地が真っ直ぐである。
平天の地というのを、我輩は、平天下といったのである。
地が曲がっていれば、乱天というのである。これを、
乱地という。青磁の皿の曲がり具合でもある。

我輩の表現を詩的な表現と言う、意を、少しだけ得ている
表現である。意は、我輩の現表という。我輩は、乱地という、
ことを、ランチと、如何なる語で表したのである。これは、
飯を食す語である。而して、ランチの後は、と問う言葉がある。

これに答えて、ランチ後という。これを、平天下という、ことにした
今の、我輩である。ランチ語という、誤解を生ずる。ひぃは、平天下
という、これで、わかるのである。

我輩の知恵ともいう。言うべくしていう、我輩の答えである。

我輩を、子孫という、かの有名という、有名な「我輩は猫である」と
いう書である。書が、我輩を、かの文豪の子孫であるという。

我輩は、かの有名な文豪の子孫である。この文豪の、後を凌ぐ
文という。少し、付け加えるこの文である。かの有名な文豪が、
我輩の祖先であるということを、この文面より理解することを、
いわなくてもわかっている世間という。我輩である。

我輩の国権という。黒犬という、当て字はしないのである。
我輩の国権である。我輩は犬である。世は、我輩を国権と
いうのである。とかく、政治という。我輩の青磁もある。

青磁の食権で、食べていたのである。これが職権という、
言葉の奥には、「しょく」がある。この職権は、皿ではない、
という、我輩の職である。青磁という皿は、我輩の食である
時に使うものである。青磁の食である。皿のことて゜ある。
これを、皿ではないというのが、我輩の職である。

わかりやすく、執権というのである。執権という、我輩の
祖先である。内閣という、今時の政治という。
我輩を出だす言葉という。「今時」という。我輩は、今も、
旧も、今旧にある、困窮の政治である。

これを、復旧するのが、政治家という。復旧してほしくないのも、
青磁家である。我輩をいう。
とかく、良きにつこうという、我輩をいだすという。我輩は、
いわれなくとも、かの文豪に登場している隣のミケ君という、
我輩である。これが、我輩という、犬である。「我輩は猫である」
というた、我輩という。我輩が「猫」というたのである。

 隣のミケ君という、我輩の盟邦という。我が黒夏国を、「ミャウ」
という一声で表わした、名猫である。我輩を、名犬という、猫である。

我が名は、正解という、政治界にでて、久しい。何事も、「ケン」である。
この黒夏国の一部をも、「ケン」と言っている。わかりやすく、「県」と書く。

どういうことであるかは、いってわかるのが、「試験」という。
我輩は「県、犬、件、権、件・・・・」といっているのである。
いうのが、「ワン」という一声である。青磁の椀である。
もちろん、政治の腕をも意味する。之が、犬脳、権能である。

腕に至らない、足の話である。我輩のことである。
我が足は、地を踏む前に、「ケンケン」という歩きもする。
権能歩き、と名付けた我輩である。

権能といい、職権といい、挙句には、国権という。
この「権」は、我輩である。権利という。

我輩は黒犬であると、黒夏をいうのである。
これを国家と、わかりよく、説明した我輩の、
職権による濫用と書いたのである。

我輩の政治の腕である。足先の青磁である。
飯し前の青磁の椀である。「ワン」という、話
である。我輩の言葉である。

わん前青磁という、わんわん、をワンマンという、
我輩が人である。ワンマン政治という、我が政治の
腕ともいう。

これを知るには、50年の遅れが肝要である。
50年遅れていれば、これが、政界とわかる、
正解である。

これを知っているのが、かの、その人といわれる
、文豪を自負する人が書く、若い人でもある。

立山居千尋君は、国家を論ずる場合に、
「黒犬の黒夏は、青い春でしょうか」という、
切り出しをするのである。この立山居千尋君は
申し分なく、50年遅れの人物である。

 我が、黒夏国の黒犬色が、黒幕に推薦した
人物である。とかく、政治には、黒幕がいるという、
これを実現した、若い人である。

 我が、輩が、「はいいろ、灰色」という、
灰色の青春にいる人である。この立山君は、
灰色の青春という、若者である。

この若者は遅れている。この遅れを、我が黒夏国は
推すのである。国権の発動である。

我輩は犬である。黒犬である。国是の話という。
我が背は、黒い背である。「黒背」と書かない、
国是と書く、我が国家である。

 この国家は、自らを民という民が主である党である。
いわずもがな、党首は、当主の立山居千尋君である。
御爺さんを踏襲しているという。一党一採の一党独裁の
、遅れた人物である。この一彩を半減する、多彩という。
一彩を半減したら、多彩になった人物である。

こういう人物を推薦する、国権を守る黒犬国の夏である。
黒犬の夏である。これを、主催という、さいそうである。
塞翁が馬であるをまちがえた人である。犬というた人である。
それで、宰相と「さいそう」とまちがえる人である。
最小限の知識もおくれている人である。

 これが黒夏国が必要とする人物である。
立山君を推挙する我輩である。

黒犬である我輩の訓である。
演説下という。炎天下を思わす、縁の下である。
涼しい所という、我輩の舌を伸ばした場所でもある。

我輩の縁舌(演説)である。国権の演説である。
権利、権能、国権、権益、という、この「ケン」を
権と書く、我輩の知恵である。

我輩は犬である 。
(2012/02/21)

 
posted by 若軍 at 18:09| Comment(2) | TrackBack(0) | 小説
この記事へのコメント
いつもじっくり有難く拝読させて頂いています
Posted by 小多田 at 2012年02月24日 03:51
ご愛読、ありがとうございます。
Posted by 若軍 at 2012年03月03日 22:00
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