2012年02月19日

第35章 おわら春

おわら春
 緑草、日を仰ぎて、雲なむを
愛づ。

 その人は、字を雲と例えることがある。
「雲を読む」と、読書を表現する。刻々と
変わっていく字面を見て、空を行く雲を
思う。その人は、「雲にも骨がある」という。
それが見えるという。
 雲に浮かぶ字を見たという。
「どう書いてあった」と、友が尋ねる。
「『私』と書いてあった。これは雲の骨であり、
雲の字であろうか。『私』は雲の名前であろうか」
と答えた。
 
 春が、征服を終え、去っていく。春発の侵攻である。
「終わったよ」と、春の声を聞き、空も夏空になる。
去りゆく、過ぎ行く春。
『私』は、雲が直らう、春への労いである。
『私』は、春のおわら路である。
おわら旅行く、雲春の世、『私』の魂である。

 石抱く緑の草、おわら世に咲く、雑草である。
露を受け、玉と成す、春草の汗の結晶である。
あの春草も『私』を読んでいるだろう。

 「紫だちたる、雲のたなびきたる。」 骨々の
声を聞く。その人は、その雲を「紫雲」と名づけ、
字を「雲紫」という。「運紫行き交う、書空のおわら」
と、本を呼ぶ。

 「おわら春」といって、本を閉じた。授業が終わった。
ざわめく周りを背に、窓の外の城を眺め、目の下の園に
咲く色とりどりの花を楽しむ。その人の、一おわらである。

 終わっていく春を「おわら春」という、終わり春ともいう。
侵攻をを受けた園、おわら春を、春のたたえという。
丘春のくれなずみとも、その人は表現する。
『私』の雲言、春の弔いである。

 遠い春、その人は、好きな御祖母に別れを告げた。
幼い日に背負われた、御祖母の背に、負われた日、
、おわる背のおわら、その人の、くれなずみである。
春雷の春葬、御祖母を心に思う、その人である。

 ややとよの雲送り、春の日の御祖母なつかしむ
、その人は、丘を墓という。丘墓の春、呉れていく。
くれて、なつかしむ夏を、つれてくる。
御祖の春。おわら春である。
20120219

posted by 若軍 at 08:04| Comment(2) | TrackBack(0) | 小説
この記事へのコメント
春の初めと終わりの季節差の違いに 一番愕然としますね。 今 寒い北国ドイツでは、春へのめざめ が 意識されています。
Posted by 小多田嘉宏 at 2012年03月01日 04:10
コメントありがとうございます。
こんな下手な文を書いていると、
ドイツの「アルト・ハイデルブルグ」を
思い出します。昔読んだ名作です。
Posted by 若軍 at 2012年03月03日 20:59
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